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目黒隧道(コンクリ巻)旧道
小掘割 
地蔵峠という名の由来、文字の通り地蔵が由来なのですが、
その名が最初に確認されるのは、目黒山形関係資料です。

目黒山形関係資料とは、寛文5年(1665年)宇和島藩と吉田藩の
境界紛争を幕府に裁定して貰うべく、吉田藩の町見師(測量士)と
大工によって造られた絵図や立体模型等の資料であり、
その中で、地蔵峠の位置に地蔵堂と表記されていました。

目黒隧道直上にて 
表記は、境界を示す一つのポイントとして描かれており、
後に、地蔵峠と呼ばれる由縁になったとされています。

目黒山形関係資料は、幕府の裁定まで7年越しで争われた
境界紛争の貴重な資料であり、立体模型の大きさは、
縦190.0cm、横262.1cm、高さ21.0cm、運搬の便も考えて
6つに分割でき、縮尺は約5900分の1となっていました。

路盤工 石垣 
3世紀以上前に作られた、山形模型のスペックが妙に細かいのは、
驚くことに、当時のまま現存しているから。

目黒ふるさと館に展示されており、昭和39年(1964年)、
所有者の建徳寺において、製作からほぼ300年ぶり
再発見された驚くべき貴重な資料です。その後、研究や調査が進み、
製作から342年経った平成19年(2007年)、歴史資料としては、
愛媛県内で初めて国の重要文化財に指定されました。

地蔵峠(目黒峠) 
狭い幅員、急カーブの連続、荒れ果てた路面。

松野側旧道分岐より約3キロ進むと、遂に峠へと至りました。
標高340mにある、往年は路線バスも通った深い掘切り…

大正末期に切り開かれ、松丸〜目黒間に初めて
自動車交通をもたらしたという素晴らしき遺構です。

地蔵峠 
この堀切りが完成する前は、沢沿いに大きな
アップダウンを繰り返して進む道がありました。

その道(旧々道)は、徒歩や牛馬しか通行を許さなかったので、
松丸から目黒まで2時間も掛かっていたそうです。
しかし、この堀切りを含めた地蔵峠が開通すると、自動車
交通の恩恵を大いに受け、時間が約35分に短縮されました。

また、観光地である滑床渓谷の開発に寄与することとなり、
峠に三体の地蔵が祀られ、庚申庵も建てられていたそうです。

現在では、地蔵も庚申塚も無くなり雨量観測所があるのみ。

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