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日露戦争時に造られた要塞
大東亜戦争時に造られた毒ガス工場

北部隧道 東側坑口
人間と隧道の大きさ、そしてコンクリの分厚さを対比。

日露戦争の頃なので、コンクリは貴重品だったと思われますが、
惜しみなく使用されているのは、さすが国策と言ったところ。

中部砲台跡
ここは島のてっぺん、一番高い所に設置されていた砲台の跡。
現在は電力会社の大鉄塔が立っているので、
車を持ち込めば楽にここまで来ることができます。

我々は、バイクを盛港に置いてきていたので、
徒歩で汗だくになりながら30分かけて歩きました。(疲
次はフェリーにバイクを積んでこようと思います。

で、写真のものは弾薬庫や兵舎などです。

中部砲台案内看板
島のてっぺん砲台がこの要塞の主力だったようです。
装備されていたのは10cm加濃砲。

しかし、対ロシア戦争直前に建造されたこの要塞の煉瓦が、
ロシアから輸入されていたとは因果な・・・。
この頃の非常に不安定だった世界情勢が伺えました。

弾薬庫や兵舎の内部
隣同士がこのように繋がっている場所と、繋がっていない場所があります。
火災が発生した場合を考えて、防火壁の意味で区画されたのでしょうか。

それとも、兵舎として建設された棟もあるそうなので、
弾薬庫として使用したものと兵舎で造りが変えてあるとも考えられます。

大東亜戦争時には、毒ガス弾の貯蔵庫としても使用されていました。

南部砲台跡
一番保存状態が悪い遺構です。
しかし、この小さな島はハリネズミのように
砲を据えられていたようで、歩いて軽く回れる島なのに、
これだけの装備がされていたと考えると恐ろしい時代ですね。

ちなみに、砲は大東亜戦争時には島より持ち出されて
中国や、南洋の前線に配置されたそうです。

南部砲台の案内看板
広島県竹原市忠海町にあった砲兵大隊の正門の様子が
南部砲台の案内看板と共に掲載されていました。

この島で働く人のほとんどが、忠海町から毎朝船で通勤しそうです。
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