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石組+素掘り

八番坑道準位こと第三通洞
明治35年までに1,818mもの距離が掘られ、
鉱石の搬出に大活躍していた通洞は更に掘り進められます。

明治41年(1908年)9月には斜坑の底から掘削が行われ
明治44年(1911年)2月に日浦谷まで日浦通洞が掘られました。

この日浦通洞〜斜坑までの距離は2,020mもあり、
第三通道と合計して3,838mものトンネルとなります。

要石
通洞掘削は住友の社運と鉱山近代化を掛けた
一大プロジェクトだったことでしょう。

その心意気が第三通道の要、
文字通りですが要石に刻み込まれていました。

この井の字を斜めにした紋様は住友金属鉱山の社章であり、
当時の鉱山に掛ける人たちの期待と熱意が伝わってきます。

内部
木の支保杭が今でも力強く残っていました。

この第三通洞と日浦通洞の完成により
銅山越の北側(東平)と南側(日浦)が結ばれ、
構内を走る電車(バッテリーロコ)によって
筏津(いかだつ)・弟地(おとじ)・余慶(よけい)
積善(せきぜん)という日浦以遠の開発が容易となりました。

上記した土地には銅山川沿岸に広がる重要な支山となって
長期に活躍、その内の筏津鉱は別子銅山最後の坑道として
昭和48年(1973年)3月、別子終焉の地となりました。

レール
内部には鉱山鉄道のレールも残されています。

当時、第三通洞内を走った鉱山鉄道は一般にも開放されており
今なお「籠電車」という愛称付きで呼ばれていました。

籠電車の実物は愛媛県総合科学博物館や、
東平地区にある隧道博物館こと小マンプ内で見られます。
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