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砥石(砥石屑)鉱山(非鉄鉱山)
山頂側 坑口 
今でこそ有名な砥部焼ですが、開発当初は
現在のような磁器ではなく陶器でした。
慶弔・元和(1596〜1624)の頃、徳利や皿など
日用雑器が作られたのに始まると云われ、
元文5年(1740)に大洲藩史 人見左衛門栄智が
書いた大洲秘録に「陶器茶碗鉢類トベヤキと云」と
記されたのが初の「砥部焼き」登場とされています。

その後、安永4年(1775)大洲藩主 加藤泰候が、
藩営の上原窯に命じ、安永6年(1777)杉野丈助らが
苦心の末、砥石から磁器を作り、門田金治が商業生産し
全国に広めた物が、今の砥部焼きの基礎となりました。

第二坑道 
第一の坑道を制覇すると、息つく暇なく
第二の坑道が目の前に現れました。即突撃!
画像は振り返って第一の坑道を見ています。

砥部焼が陶器から磁器へと変遷したきっかけは、
大洲藩が直営をした安永年間(1772〜1780)に
飢饉があり、危機に陥った藩財政を立て直すべく
ゴミだった砥石屑を利用したことが始まりでした。

第二坑道 内部 
砥石屑から開発された磁器の生産効率を上げる為、
レンガを用いた登り窯が各所・各窯に作られたり
大登窯という技術革新を経るなど発展を伴いました。

そして、いったん成功したら藩のTOPシークレットです。
当時、焼物が名産であった他の藩と同じように、
砥部焼作りの技術は門外不出とされたようです。

第二坑口 山頂側 
コバルトブルーの美しい彩色と意匠により
明治26年のシカゴ博覧会にて一等を獲得、
生産量の7割が輸出されていきました。

輸出により明治以降の砥部焼きは隆盛を誇ります。

大東亜戦争を受けて一旦ブームは終息しますが、
戦後は生活必需品の食器類として広がりました。

第三坑口 
砥部焼の昔ながらの手作りと独特の趣が認められ、
昭和51年に国指定伝統的工芸品へ指定されました。
現在も砥部焼の材料は砥部町内の上尾陶石と、
満穂陶石(共に露天掘)で産出され続けています。

公園の内部にはいくつも坑口が開いており、
崩落して閉塞している物も無数にありました。

砥部町内には砥部焼の変遷をモチーフにした
モニュメントも存在しています。(陶祖ヶ丘にて)
また、砥部町北川毛地区からは陶器時代に作られた
文献通り陶器の砥部焼きが出土しているそうです。

川登陶石 
最後に、現在の陶石を見てみましょう。
現在でも操業している川登陶石にお邪魔しました。
工場内で石を砕き、磁器の材料を生産しています。

画像のように工場周辺には陶石が置かれていました。
これが奥で砕かれて土や粘土となっています。
昔は水車を使って(水搗き)石を砕いていましたが、
現在は電気(当たり前)で動く機械で砕いています。

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